地をはう大学院生→ポスドク→国立大特任教員→私大専任教員

はてなダイアリーから引っ越ししてきました。昔の記録です。

アウトプット至上主義ってどうなんだろ

世の中効率化が叫ばれて、何であれ、結果を出せないものは滅びてしまえと指差される運命にある。
しかし、そういった風潮の中で、どうも短期的な(目に見える)アウトプットばかりが過度に重要視されているような気がしてならないのだ…。
 
大学の生活にどっぷりつかっているのでそこの話だけど、たとえば大学の研究の成果はいわゆる論文で計測されたりする。それゆえに一論文あたりいくらかかっているか、というような議論もよくなされるわけだ。
でも、研究活動の成果って、論文というアウトプットだけではないよなぁ、と思うのだ。
研究活動を行うことで、ある分野の人材を(質的な意味でも、雇用の面でも)維持し、その分野の力が必要とされたときにいつでもその力を取り出せるよう、基盤を維持しておく。そういう側面って、結構大きいとはず。
むしろ今年論文が何本出ましたよ、ということよりも、そういう活動のできる基盤が維持されていますよ、ということの方が、長期的に見たら重要な機能ではないかと思うのだ。
 
たとえば、短期的なアウトプット以上に基盤の維持に価値を置いているものといえば、日本…に限らず、農業がそうだろう。もちろん作物によるけれど、投入される公的な資金、関税による間接的な国民負担で、その営みが維持されているものは多いわけで。
そのようにして、自由貿易するよりも高いお金を払って、国民がどのような価値を得ているかというと、それはいわゆる食料自給率の確保なわけだ。まあ副産物として治水機能や景観の維持、地域のブランディング、…いろいろあるにしても。
もちろん、食料自給率など、平時においてはそれほど重要な問題ではない。有事の際に国民を食わせられるかどうかの保障といっていい。数値の出し方に異論はあるにしても…。
つまり、現状を客観的にみるならば、農業の機能のうち、何にお金が払われているかというと、農業生産の基盤の維持にほかならない。いざという時、いつでも食料生産をできる耕地や人材、技術を維持しておくこと。その目的のために、国民は費用を払っている、と解釈できる。
もちろん燃料、肥料が不足すれば農業が危機的状況に陥るのは第二次大戦のころから同じだけど、耕地や人材はまちがいなく重要な要素だ。
 
軍需品の発注なんかもにたようなもので、民間企業に軍需品の生産能力を持ち続けてもらうために、高くついても毎年少しずつ発注を続ける。技術力のいる工事なども、発注元はその技術がロストテクノロジーにならないように、毎年少しずつ発注する…。
 
大学とかも、平時にぽこぽこ出てくるアウトプット以上に、いざという時のための技術や人材を滋養する場、という考え方もできるんじゃないかなぁ。百年兵を養うはただ一日これを用いんがため、と言う。その副産物として教育や、科学技術の発展、文化活動の振興がでてくる…くらいの見方。
最近は、ぽーんと大量の予算を特定の分野に何年間かばらまいて、すぐに投資を回収しよう、って政策がはやりな気がするのだけど、そういうのはアウトプットは出てきても、人は使い捨てになりかねないわけで、重要な機能が欠けているような気もするのだ。滋養していたものを必要に応じて加速させ、花開かせるための予算なんだ、と解釈すべきなのかもしれないけれど。
 
それでも、短期的なアウトプットを最大化することに適応しすぎるのは危ない。
何年か前、不動産市況が悪化したとき、マンションデベロッパーがいくつも消えていった。
多くは利幅のいい不動産開発に注力していた企業だった。一方で、儲けは少ないけれど、長い期間、確実に日銭を生みつづけてくれる不動産賃貸や不動産管理に力を注いでいた企業は生き残った。(…あまり詳しいわけではないので、この事実認識が正しいかどうかはそこまで自信がないが…。)
 
短期的な、目に見えるアウトプットにばかり注目してると、見失いがちになることがある。
いざというときに支えてくれる備えを、短期的にみたらコストベネフィットが悪くても、維持しておくことの大切さ。
もちろん、価値が見えにくいものに関してそれを論じる場合、霊感商法まがいにならないように注意する必要があるだろう。普段のアウトプットは、そうならないための取捨選択の基準につかえる、…くらいに思っておいても、あながち間違いではないような。…そんなことを思ってみたり。